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倶知安神社を詳しく|阿倍比羅夫を祀る珍しい神社、十一柱の御祭神・創建・例大祭・赤坂奴・羊蹄山神社

ニセコHUB編集部 · 2026/10/12

倶知安神社を詳しく|阿倍比羅夫を祀る珍しい神社、十一柱の御祭神・創建・例大祭・赤坂奴・羊蹄山神社

倶知安神社は、倶知安町の八幡(はちまん)という地区に鎮座する、この町の総鎮守です。明治29年(1896年)に開拓の守護神として八幡さまをお祀りしたのがはじまりで、今では十一柱(はしら)もの神々を祀っています。そのなかに、飛鳥時代の将軍・阿倍比羅夫(あべのひらふ)が含まれているのが、この神社の大きな特徴です。人物を神として祀る神社は各地にありますが、阿倍比羅夫を祀る神社は、全国でも数えるほどしかありません。

この記事は2026年10月8日時点の情報です。祭日や行事は年によって変わることがあり、最新は神社や北海道神社庁の案内でご確認ください。神社の名のもとにもなっている阿倍比羅夫と「ヒラフ」という地名のつながりは、ニセコという土地の名前の由来の記事ともあわせて読むと、より立体的に見えてきます。ここでは、倶知安神社そのものを、創建の物語から御祭神、例大祭、そして現在のお参りの作法まで、ひととおりたどっていきます。

倶知安神社とはどんな神社か|八幡さまと、十一柱の神々

倶知安神社の中心におられるのは、誉田別尊(ほんだわけのみこと)です。誉田別尊は、第十五代の応神(おうじん)天皇のことで、古くから「八幡(はちまん)さま」として全国で親しまれてきた神さまです。倶知安神社の地区名が「八幡」であるのも、この神社が八幡さまをお祀りしていることに由来します。八幡さまは、もとは武の神として、のちには人々の暮らしを広く守る神として信仰されてきました。八幡さまをまつる神社は、全国でもっとも数が多い神社のひとつと言われ、北は北海道から南は九州まで広がっています。武士の時代には戦の守り神として、平和な時代には田畑の実りや家の安全を願う神として、人々は八幡さまに手を合わせてきました。開拓地であった倶知安が、まず八幡さまを迎えたのは、見知らぬ土地での暮らしを守ってほしいという、ごく自然な願いからだったのでしょう。

倶知安神社が今お祀りしているのは、この誉田別尊を主祭神として、あわせて十一柱の神々です。北海道神社庁の案内によれば、御祭神は、誉田別尊、阿倍比羅夫将軍、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、大山祗神(おおやまつみのかみ)、保食神(うけもちのかみ)、菅原道真公(すがわらのみちざねこう)、大国主命(おおくにぬしのみこと)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、天之鈿女命(あめのうずめのみこと)、大山咋神(おおやまくいのかみ)、玉姫稲荷大神(たまひめいなりのおおかみ)です。開拓の神、海を越えてきた将軍、天の神、山の神、食べものの神、学問の神と、暮らしのいろいろな場面に対応する神々が、ひとつの社に集まっています。これだけの数の神さまがそろうと、お参りする人は、自分の願いにいちばん近い神さまを思いうかべながら手を合わせることができます。縁を願う人、学びを願う人、商いの無事を願う人。ひとつの神社が、まちに生きるいろいろな人の願いを、まとめて受けとめてきました。

ひとつの神社にこれだけの神々が祀られているのは、めずらしいことではありません。開拓でひらかれた北海道の神社は、もともと別々にお祀りされていた神さまを、時代とともにひとつにまとめていった例が多いためです。倶知安神社も、はじめは八幡さまひと柱から出発し、長い年月のなかで、地域の願いにこたえるように神々を迎え入れてきました。

創建の物語|クッチャン原野の開拓と、石清水八幡宮

倶知安神社のはじまりは、明治29年(1896年)4月2日にさかのぼります。当時、クッチャン原野と呼ばれたこの土地に入植した人々が、新しい暮らしの守り神を求めて協議しました。北海道神社庁の由緒によれば、縫部兼次郎(ぬいべかねじろう)、萬代佐太郎(まんだいさたろう)、山本保次郎、山本弥平といった人たちが中心となり、京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)から誉田別尊の御分霊(ごぶんれい)を勧請(かんじょう)したと伝えられています。

石清水八幡宮は、京都の南に鎮座する、日本でも格の高い八幡宮のひとつです。遠く離れた北の開拓地が、その御分霊を迎えたという事実からは、入植者たちがどれだけ真剣に土地の安全と実りを願っていたかが伝わってきます。はじめは、ブイタウス(現在の豊岡)という場所の小さな祠(ほこら)にお祀りされました。開拓の初期ですから、立派な社殿があったわけではありません。小さな祠に、はるばる迎えた八幡さまをおさめた。それがこの神社の出発点でした。クッチャン原野は、もともと深い森と湿地が広がる土地でした。入植した人々は、木を切り、根を起こし、雪とたたかいながら、一枚ずつ畑をひらいていきました。夏は短く、冬は長い。そういう土地で、春にまく種が実るかどうかは、その年の暮らしを左右しました。神社に八幡さまを迎えたことは、信仰であると同時に、まちの人々が心をひとつにするための、よりどころづくりでもありました。

同じ年の9月には、現在の八幡の地に遷座(せんざ)します。そして翌明治30年(1897年)1月24日に、神社としての設立が正式に許可されました。入植からまだ日の浅い土地に、自分たちの手で神社を立ち上げていく。倶知安神社の歴史は、そのまま倶知安という町の開拓の歴史と重なっています。冬になれば雪に深く埋もれるこの土地で、春の実りと家族の無事を祈る場所が、こうしてひとつずつ形になっていきました。

村社から郷社へ|地域の神社として育つ

小さな祠からはじまった倶知安神社は、町の成長とともに、神社としての格をあげていきます。大正7年(1918年)には村社(そんしゃ)に昇格し、大正11年(1922年)には郷社(ごうしゃ)に昇格しました。

村社や郷社というのは、戦前に使われていた神社の格づけ(社格)の呼び名です。村社はその村の鎮守、郷社はもう少し広い地域をまとめる神社という位置づけでした。短い期間で村社から郷社へと進んだことは、倶知安が後志の中心的なまちとして人口を増やし、神社もそれだけ多くの人の心のよりどころになっていったことを物語っています。開拓の守り神として迎えられた八幡さまは、いつのまにか、まちぜんたいの祭りと祈りの中心になっていました。社格は戦後に廃止されましたが、村社から郷社へと歩んだ道のりは、倶知安というまちが開拓から数十年で大きく育ったことの、ひとつの証でもあります。人が増え、田畑が広がり、商いがさかんになるにつれて、神社もまた、より多くの祈りを受けとめる場へと変わっていきました。

なぜ阿倍比羅夫を祀るのか|『日本書紀』と「後方羊蹄」

倶知安神社をほかの神社と分けている、いちばんの特徴が、阿倍比羅夫将軍を祀っていることです。これは昭和17年(1942年)、石造りの大鳥居を再建したときに、後志(しりべし)開拓の祖神(そしん)として、阿倍比羅夫将軍をお祀りに加えたことによります。

その理由は、千年以上前の古い歴史書『日本書紀(にほんしょき)』の記述にさかのぼります。『日本書紀』には、斉明(さいめい)天皇の御代(みよ)に、阿倍比羅夫が船団を率いて北の海へ遠征したことが記されています。斉明天皇5年(659年)の記事には、比羅夫が「後方羊蹄(しりべし)」という場所に政所(まつりごとどころ)を置き、土地をおさめる役人を任命した、という意味のことが書かれています。この「後方羊蹄」が、今の「後志」という地域名のもとになったと考えられているのです。

つまり倶知安神社は、「後志という土地の名づけ親ともいえる将軍を、開拓の祖神としてお祀りしよう」という思いから、阿倍比羅夫を迎えたことになります。もっとも、阿倍比羅夫の遠征が実際に羊蹄山のふもとまで届いたのかは、はっきりとは分かっていません。そこは史実というより、長く語り継がれてきた物語の部分です。阿倍比羅夫が戦った相手として『日本書紀』に出てくる「粛慎(みしはせ)」は、北の海でくらしていた人々とされます。比羅夫は生きたヒグマ2頭とその毛皮70枚を朝廷に献上したとも記され、当時の北の国のようすが、わずかにうかがえます。のちに比羅夫は、朝鮮半島での白村江(はくすきのえ)の戦いにも将として加わりました。「後方羊蹄」が具体的にどこを指すのかは、研究者のあいだでも見方が分かれています。それでも、後志という地域名の由来として長く語られてきたことは確かです。

歴史上の人物を神としてまつる神社は、学問の神・菅原道真公をまつる天満宮や、武将をまつる神社など、全国にいくつもあります。もっとも、古代の将軍である阿倍比羅夫をまつる例は、きわめて少数です。倶知安神社がこの将軍をまつるのは、単なる偉人への敬意というより、この土地の名の由来となった人物を開拓の祖神としていただく、という土地に根ざした理由があるからです。それでも、千年以上前の将軍と、明治からの開拓者たちの祈りが、ひとつの神社のなかで結びついている。この時間の重なりが、倶知安神社をただの町の神社以上のものにしています。

十一柱の御祭神|一柱ずつ知る

倶知安神社の十一柱は、それぞれにご縁のある分野があります。お参りの前に、どんな神さまがおられるのかを知っておくと、手を合わせる気持ちも変わってきます。

主祭神の誉田別尊(応神天皇・八幡さま)は、武の神であり、国と人々の暮らしを広く守る神です。阿倍比羅夫将軍は、北へ向かった古代の武人で、後志開拓の祖神として祀られています。天照大御神は、日本の神々の中心におられる太陽の神です。大山祗神は山をつかさどる神で、羊蹄山のある土地にふさわしい一柱です。保食神は、食べものと実りの神。開拓地にとって、作物の実りを守る神さまは何より大切な存在でした。

学問の神として知られる菅原道真公は、受験や勉強の祈願で親しまれています。大国主命と事代主神は、縁結びや商売、国づくりにかかわる神々です。天之鈿女命は、芸能や、道をひらくことにご縁のある神さまとして伝わります。大山咋神は、山と、酒づくりなどにかかわる神。玉姫稲荷大神は、稲荷の神として、商売繁盛や家の守りで信仰されてきました。

こうして並べてみると、この一社で、暮らしのほとんどの願いごとをカバーしていることが分かります。開拓から始まった町が、仕事、学び、縁、健康、実りと、生きていくうえで必要なものを、少しずつこの神社に重ねてきた。十一柱という数字は、その積み重ねそのものです。

蝦夷富士・羊蹄山とともに|境内社「羊蹄山神社」

倶知安という町を語るとき、羊蹄山(ようていざん)を抜きにはできません。きれいな円すい形から「蝦夷富士(えぞふじ)」とも呼ばれるこの山は、町のどこからでも見え、昔から人々の目印であり、心のよりどころでした。

倶知安神社の境内(けいだい)には、この羊蹄山をまつる「蝦夷富士羊蹄山神社」という境内末社(けいだいまっしゃ)があります。御祭神は、大山祗神、大国主神、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)です。山そのものを神としてうやまう気持ちは、日本の各地にある山岳信仰(さんがくしんこう)の流れをくむものです。羊蹄山は、ふもとに「ふきだし湧水」などの名水がわくことでも知られ、その水は暮らしや農業をささえてきました。山がもたらす水と実りへの感謝が、山そのものを神とする信仰の背景にあります。羊蹄山神社の例大祭は、毎年9月12日に行われます。本社の夏の例大祭とはまた別に、秋口に山の神をまつる日があるわけです。

羊蹄山は、湧き水の名所としても知られ、ふもとには澄んだ水がわく場所が点在します。山の恵みで暮らしてきた土地だからこそ、山を神としてまつる社が、町の総鎮守の境内に置かれている。羊蹄山そのものの楽しみ方は、羊蹄山の登山ガイドでくわしく紹介しています。

倶知安神社例大祭|七月末の三日間と、神輿渡御

倶知安神社のいちばんの祭りが、夏の例大祭です。例祭日は7月28日で、祭りは7月27日から29日までの三日間にわたって行われます。雪深い土地にとって、夏の祭りは一年でもっとも華やぐ時間です。

一日目の27日は、宵宮祭(よいみやさい)。祭りの前夜にあたり、翌日からの本番にそなえて神事が行われます。二日目の28日が本祭(ほんさい)で、神輿渡御(みこしとぎょ)の一日目。神さまをのせた神輿が、氏子(うじこ)のまちをめぐります。三日目の29日は、御旅所(おたびしょ)からの発輿祭(はつよさい)と、神輿渡御の二日目です。

この祭りには、倶知安神社の頓宮(とんぐう)という場所も関わってきます。頓宮は、境外末社(けいがいまっしゃ)、つまり境内の外にあるお宮で、御祭神は誉田別尊、大国主神、事代主神です。神輿渡御のあいだ、神さまが一時的におとどまりになる御旅所の役割を担います。町の通りを神輿が練り歩き、沿道の人々がそれを迎える。三日間、まちが祭り一色になります。冬のあいだ雪と向き合ってきた人たちにとって、この夏の数日は、一年の労をねぎらう特別な時間でもあります。祭りの日には、参道や通りに露店が並び、子どもたちの笑い声がひびきます。短い夏の夜を惜しむように、人々は神輿を追い、祭りばやしに耳をかたむけます。雪に閉ざされる冬を知っているからこそ、夏の祭りの明るさは、この土地では特別な意味を持ちます。

倶知安赤坂奴|町の無形民俗文化財 第一号

倶知安神社の例大祭を語るうえで欠かせないのが、「倶知安赤坂奴(くっちゃんあかさかやっこ)」です。これは、昭和60年(1985年)7月1日に、倶知安町の無形民俗文化財の第一号に指定された、由緒ある祭りの所作です。

「奴(やっこ)」とは、江戸時代の大名行列で、先頭に立って道具を持ち運んだ供の者のことです。その行列の動きを、独特の所作として様式化したものが「奴振り(やっこぶり)」と呼ばれ、全国の祭りで受け継がれてきました。毛やりや箱を手に、体を大きく使って進む姿は、祭りの行列に風格を添えます。倶知安赤坂奴も、この奴振りの流れをくむもので、例大祭の神輿渡御の行列を、堂々とした所作で先導します。

こうした芸能が、町の無形民俗文化財の第一号として守られていることは、倶知安の人たちがこの祭りをどれだけ大切にしてきたかを示しています。神輿と赤坂奴が通りを進む光景は、倶知安の夏を象徴する風景のひとつです。世代から世代へと所作を受け継いでいくことで、祭りは単なるにぎわいではなく、まちの記憶そのものになっていきます。奴の所作は、見よう見まねですぐにできるものではありません。足のはこび、体のむき、道具のあつかいまで、先輩から後輩へと、時間をかけて受けつがれていきます。祭りのたびに若い世代が加わり、年長者がそれを支える。その循環があるからこそ、百年をこえて祭りは続いてきました。

倶知安神社と、まちの一年

倶知安神社は、夏の例大祭だけの神社ではありません。まちの人々にとっては、一年の節目ごとに足を運ぶ場所です。年が明ければ初詣でにぎわい、2月の節分には豆まきが行われます。春には、その年の実りを祈る祈年祭。秋の新嘗祭では、とれた作物に感謝をささげます。そして大みそかの除夜祭で、一年がしめくくられます。

子どもが生まれれば初宮参り、七五三には晴れ着の家族が境内をおとずれます。受験の季節には、学問の神・菅原道真公に手を合わせる人が増えます。開拓の守り神として迎えられた神社は、いつしか、まちの人の一生の節目によりそう場所になりました。観光で名高い倶知安の、もうひとつの顔が、この八幡の杜にはあります。

火災と再建、そして鎮座百三十年|神社の近代史

長い歴史のなかで、倶知安神社は大きな試練も経験しています。昭和40年(1965年)11月5日、社殿が全焼するという出来事がありました。開拓以来、まちの祈りを受けとめてきた社殿が失われたことは、町の人々にとって大きな痛手だったはずです。

それでも神社は再び立ち上がります。昭和41年(1966年)には、社名を現在の「倶知安神社」にあらため、昭和48年(1973年)に社殿が再建されました。火災からの再建は、まちの人々の寄進と力によって支えられたものです。失っても、もう一度建て直す。開拓の精神は、神社の歴史のなかにも流れています。

その後も、倶知安神社は節目ごとに大きな祭りを重ねてきました。平成7年(1995年)12月16日には鎮座100年祭、平成27年(2015年)11月8日には鎮座120年祭が行われています。明治29年の創建から数えて、令和7年(2025年)には鎮座130年を迎えました。一世紀をゆうに超えて、ひとつの神社がまちとともにあり続けている。その重みが、境内の空気にはにじんでいます。

お参りの実際|アクセス・年中行事・御朱印・ご利益

最後に、実際にお参りするときの手がかりをまとめておきます。倶知安神社の鎮座地は、虻田郡倶知安町字八幡476番地です。公共交通では、JR函館本線の倶知安駅から道南バスに乗り、「倶知安神社前」で下車してすぐです。駅からバスでおよそ8分ほどの距離になります。

年間を通して、神社では多くの神事が行われます。1月1日の歳旦祭(さいたんさい)にはじまり、2月3日の節分祭、5月3日の祈年祭(きねんさい)、7月27〜29日の例大祭、9月12日の境内社・羊蹄山神社の例大祭、11月23日の新嘗祭(にいなめさい)、そして12月31日の除夜祭(じょやさい)と続きます。初詣や七五三のころには、地域の人々でにぎわいます。

御祭神が十一柱におよぶだけあって、ご利益も幅広く伝えられています。縁結びや恋愛成就、学問・合格祈願、金運や商売繁盛、健康長寿や病気平癒、安産・子宝、厄除け、交通安全、家内安全、勝負運、五穀豊穣など、暮らしの願いごとのほとんどに、対応する神さまがおられます。参拝の記念には御朱印(ごしゅいん)をいただくこともできます。御朱印は御朱印帳への直書きで対応しており、季節限定のものや郵送の対応はないと案内されています。はじめて神社にお参りする人は、鳥居の前で軽く一礼し、手水舎(てみずや)で手と口を清めてから拝殿に進む、という流れを覚えておくと安心です。拝礼は、二回おじぎをし、二回手を打ち、最後にもう一度おじぎをする「二礼二拍手一礼」が基本です。作法にとらわれすぎる必要はありませんが、気持ちをこめて手を合わせると、参拝はより深いものになります。くわしい作法や日本の神社の文化そのものに興味があれば、日本文化ガイドも参考になります。

スキーやリゾートで知られる倶知安ですが、その中心には、開拓の祈りと千年の物語を受けとめてきた神社が静かに立っています。羊蹄山を見上げながら、一度、八幡の杜(もり)に足を運んでみてください。

よくある質問

倶知安神社はどこにありますか?

虻田郡倶知安町字八幡476番地です。JR倶知安駅から道南バスで約8分、「倶知安神社前」で下車してすぐです。

御祭神は何柱いますか?

十一柱です。主祭神は八幡さま(誉田別尊)で、阿倍比羅夫将軍、天照大御神、大山祗神、保食神、菅原道真公、大国主命、事代主神、天之鈿女命、大山咋神、玉姫稲荷大神をお祀りしています。

例大祭はいつですか?

例祭日は7月28日で、祭りは7月27日から29日までの三日間です。神輿渡御や、無形民俗文化財の倶知安赤坂奴の所作が見どころです。

なぜ阿倍比羅夫が祀られているのですか?

昭和17年に、後志開拓の祖神として増祀されました。『日本書紀』に、阿倍比羅夫が「後方羊蹄(しりべし)」に郡領を置いたと記されていることが理由とされます。阿倍比羅夫を祀る神社は、全国でもめずらしいものです。

御朱印はいただけますか?

いただけます。御朱印帳への直書きで対応しています。季節限定の御朱印や郵送での対応はないと案内されています。

この土地の名前と歴史をもっと知りたくなったら、ここから読み進めてみてください。

— ニセコ Hub 編集部

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